Life Itself

生活そのもの

「弁造さんのエスキース展」

娘を保育園に送ると、娘は全く泣かず、笑顔ではなかったものの、悲しそうでもなく無の表情でもなく、いつもどおりのリラックスした表情でバイバイをしてくれた。

20分ほど歩いて保育園から家に戻り、そのままヨガと瞑想をした。20分のウォーキングと40分のヨガで結構な量の汗をかいて、シャワーを浴びた。しっかりと汗をかいたあとのシャワー、それも朝のシャワーというのは、最高に気持ちがいいものだ。先日の旅行で1日も休まずヨガをできたことが自信、自信というのはふさわしいことばではないかもしれないが、それでも敢えてことばにすれば毎日ヨガをすることへの自信、が少しついたような気がする。どんなにきつい状態であっても、ヨガをするということが、徐々にではあるが日常になってきている。ただ、まだ日常になりかけているだけ、いつでも止めることはできる。まだ続けることに対しては、多少の緊張の心を持たなければならないと思っている。

2年ほど前に購入した、井上弁造という方の1998年から2012年までの間、2014年というのは弁造さんが亡くなった年だ、つまり亡くなるまでの14年を追った『弁造』という奥山志さんの写真集があるのだが、その弁造さんが描いた絵が福岡のカフェで期間限定で展示されているため、今日はそのカフェへ行った。(20日に奥山敦志さんのトークショーがあったのだが、タイミングが合わず残念ながら行くことができなかった。カフェのオーナーに聞くと、その場では弁造さんの肉声も流されたらしく、弁造さんの人となりがより迫ってくるような内容だったらしい。また近くでトークショーが開催されることがあれば、行きたいと思う)

展示されていた絵はどれも素朴ながら、心に訴えかけるものがあった。というか、弁造さんという人がとても絵に現れているように感じた。それは、『弁造』という写真集を通して、わずかながらでも弁造さんの生活を見たことが関係しているのだろうと思うが、絵を絵としてのみ見ることの大切さは一旦置いておくとして、絵から直接会ったこともない人の人柄を感じることができるというのは初めてで貴重な体験だった。 また、日記にも書いたけれど、2日前に初めて福岡市美術館のコレクションを見て、その中の藤田嗣治の絵を見たところだった。弁造さんの絵にはいくつか決まったモチーフがあるが、その中の一つが裸の女性で、絵のテイストは全く違うけれども、藤田嗣治の乳白色の裸の女性の絵を見たばかりで、よかったのかよくなかったのかはわからないが、その残像が少しあった中で弁造さんの裸の女性の絵を眺めた。

しかし、見るというのはとても難しいことだ。「弁造」では奥山さんが見た弁造さん、しかもその見たものをさらに写真で四角に切り取ったものである。写真集を見ると、そこにはきっと奥山さんと弁造さんの関係性があるからこそ写されているものがあって、2人の関係性も写真の中に写っているのだと思うが、奥山さんがどれだけ弁造さんのことを見ていたのか、そして弁造さんがどれだけ日常と向き合いながら、日常を見ながら生活していたのかということを伺うことができる。だが、それはあくまで奥山さんが見たものを写真を通して僕が見ているということで、何の判断や反応なく見ることはできていないし、果たして判断や反応なく絵を見ることがいいことなのかもわからない。大切なのは判断や反応があったとしても、その場にある絵をきちんと見ることだと思う。

弁造さんはずっと絵を描き続けていたが、一度も個展を開くことはなく、また1枚も売ることはなかったようだ。また、奥山さんが弁造さんを追った14年間で、完成させた絵は1枚しかなかったらしい。それは、今回の個展にもあった母と子を描いた絵だった。母と子も、裸の女性とは別の弁造さんのモチーフの1つである。その母と子の絵以外は、エスキース(下絵)ばかりだった。しかもチラシの裏にざっくり描かれたものや、その日の食材だろうか、「キムチ」といった食べ物のメモが残された紙にエスキースが描かれていた。弁造さんにとって絵は特別なものではなく、日常の中のものだったのだろうか。 今回の個展は、「弁造さんのエスキース展」という題で、そういったエスキースばかりが展示されていた。トークショーには行けなかったが、そのエスキースを見ることができてよかった。

今回「弁造さんのエスキース展」が開催されたのは、先日、奥山敦志さんの『庭とエスキース』が出版されたことを記念してのものだった。1ヶ月以上前にこの本を購入したが、まだ読むことはできていない。ちょうど昨日1つ本を読み終えたばかりなので、今日から本を読むつもりだ。今回の展覧会を通して『弁造』の見方は少し変わるかもしれないが、『庭とエスキース』を読むとさらに変わるかもしれない。まっさらな気持ちで写真集を開くことができない残念な気持ちはあるが、一方で今回のように少しずつ写真集が更新されていくというのは初めてのことで、それは楽しみでもある。

弁造さんの絵を見ると、描き続けるということ、何かを死ぬまで続けること、そして完成させることにどれだけ意味があるのかということを改めて考えさせられる。もちろん何かを完成させることは大事なことだとは思うが、完成しなくてもエスキースとしてでも描き続けるということ。たとえ日常になったことであっても、明確な意思がなくてはずっと描き続けることはできないだろう。

カフェで本を読みながらスマホでニュースを見たら、Art Nevilleが亡くなったというニュースがあった。The Meters、The Neville BrothersのArt Nevilleである。Dr. Johnもこの間亡くなったばかりなのに....。行きは途中バスを使ってカフェまで行ったのだが、帰りはバスもすぐには来なさそうだったので、40分かけて歩くことにした。The Neville Brothersの『Brother’s Keeper』を聴きながら。今年は行かないが、今週末にはフジロックである。2009年のThe Neville Brothersのライブは最高だった。

さすがに真昼間に40分歩くのはとてつもなく暑くて、汗がとめどなく出てきた。ヨガのときにもかなりの汗をかいたが、1日に2回もこんなに汗をかくのは久しぶりだ。13時前だったが、小学生が遊びまわっていて、なんでこんな時間にと思ったが(そういう僕もそんな時間に歩いていて、それこそ不振人物と認定されても仕方がない立場なのだが)、小学生は夏休みが始まったばかりであることを思い出した。たしかに小学生の表情は、夏休みのときのそれだった。途中、からっぽの小学校を見て、とても懐かしい気持ちになった。あの頃は1日に2回でも3回でも汗をかいては遊んでいた。