Life Itself

生活そのもの

僕は片付けができない

赤ん坊は、片付けるということを覚えたのかもしれない。


昨日、赤ん坊がカード入れからカードを数十枚出して遊んでいたのだが、遊び終わったあと、それらのカードをカード入れに何度も何度もぶつけていた。ぶつけている角度から、ただぶつけているのではなく、カード入れの中に戻そうとしているのではないかと思っていたのだけれど、今日妻から送られてきた動画でそれが確信に変わった。別の遊び道具だったのだが、箱からおもちゃを出して遊んだ後、それを戻すということを繰り返していた。妻が「片付けて」と言うと、赤ん坊は言っていることを理解するのか元の場所に戻す。ご機嫌な様子で元に戻すということをしていたから、片付けるということで遊んでいたのかもしれない。僕らにモノを渡して遊んでいたことの延長なのだろうか。


僕は片付けることが苦手、というかほとんどできなくて、妻から毎日のように叱られているのだが、赤ん坊は1歳になる前から既に片付けることができている。しかも、今だけかもしれないけれど、それを楽しんでいるようでもある。親ができないことが子はできるなんてそんなに珍しいことではないのだろうが、片付けという生活の基本的なことで赤ん坊はできるのに僕はできないとなると、さすがに少し焦る。所ジョージが、片付けというのは何も綺麗にすることだけではなくて、次また気持ちよく遊ぶことができるようにすることだといったようなことを言っていた。赤ん坊はまさにそのことをしているように思う。出したものを元に戻す。またそれを出すために。その元に戻すことすらを楽しんでいる。


いや、僕だって片付けが実は楽しいことは経験上知っているのだ。大量にあるレコード・CDや本を、あいうえお/ABC順に並べたり、ジャンル順、もしくはもっと異なる関連の仕方で並べなおすことはすごく楽しい。そういう作業をしているときというのは、単純に整理するのではなくて、自分とモノ、モノとモノをつなげたり、つなげなおすことをしたり、忘れていた興味を思い出したり、懐かしい気分に浸ったたりしている。そんな感じで片付けをするから、1回の片付けにかなりのエネルギーを使う。途中から夢中になって、終わった後はその片付いたものを見て心から満足して、ぐったり疲れる。しばらくはその片付いた状態を維持しようと、出したものは元に戻すのだが、少しずつ少しずつ出しっぱなしにするものが出てきて、その量が多くなると、片付けという概念が都合よく頭の中からなくなる。で、どうしようもなくなった状態になって、仕方なくまた大掛かりな片付けをする。それは数週間に1回の周期などではない、数ヶ月に1回の周期だ。本当に片付いているのは、片付けた直後の1〜2週間しかない。これは以前にも書いた、モノへの「思い入れ」のせいかもしれない。


赤ん坊を見ていると、片付けというのはすごく単純なことだということに気づく。モノを捨てたり整理することとは違う。単純に出したものは元に戻すだけでいい。いちいち思い入れとか考えない。片付けという行為の中に思考を挟まない。
こうやって改めて書くと簡単なことのように思われるが、果たしてこれからできるようになるだろうか。自身がない。とりあえず、机の上にあるものを今から片付ける。明日自宅勤務だし。