Life Itself

生活そのもの

ただの勝手な思い込みの話

今月から慣らし保育ではあるのだけれど、慣らしとは言っても初日から6時間ほど預かってもらっている。調べてないのではっきりとしたことは言えないが、慣らし保育だと2時間程度から始めることが多いらしい。まだ1歳を迎えていない娘にとっては、6時間保護者と家から離れるというのは、やはり精神的、体力的に負担になるようだ。今日は保育園に入るや赤ん坊は口をへの字にして、すぐに泣きモードになったと妻から聞いた。妻の手から離れるともちろんギャン泣き。保育園という場所がどういう場所なのかはっきりと認識したのだろう。


そんな娘だが、家にいるときはずっとかまってちゃんかと言うと、そうでもない。基本的には遊んでほしいと要求してくることが多いが、どこか妻と僕の様子をうかがいながらというところがある。特に早朝や夕方など疲れて寝ているとき、娘は起きていても僕らを起こしに来ることはない。1人でじっと遊んでいる。遊んでいる物音に気づいて起きて笑いかけると、娘はそれを合図だと感じて、すぐに襲いかかりにくる。
赤ん坊は気を遣っているのか。もしそうだとすれば、親としては責任を感じるところである。


実家の猫にもそんなところがある。猫は、母が寝ていると起こそうとはしない。先に起きていても母が起きるまでは待っていて、母が起きたタイミングで一緒に動く。その話を聞いたとき、なんて優しい猫なんだと思った。そう、猫のその行為について僕は、母に気を遣っているのではなく、優しいと感じたのだ。


昨日にも書いたが、娘は遊んでいるモノを僕や妻に渡してくる。昨夜、赤ん坊を挟んで3人で遊んでいたのだが、娘は僕と妻交互にモノを渡してくる。決して順番を飛ばすことはない。自分で遊んで妻に渡す、妻から返してもらってしばらく遊んだあと、今度は僕に渡す。僕から返してもらって遊んだあとはまた妻に。その繰り返し。それは気遣いというよりは、娘の優しさであると思う。


娘ももしかしたら気を遣っているのかもしれないが、寝ているのを起こさないというのも優しさだろう。たとえそこに気遣いがあるとしても、優しさも同時にある。気遣いだとか優しいとことばをあてはめる必要もないのだが、気遣いということばを使ったときから娘は僕らに気を遣っているのかもしれなと思ってしまい、保育園のこともあって、娘に対して勝手に申し訳なく感じていた。一度ことばに当てはめるとそれを無しにすることは難しい。猫のことと昨夜の娘のモノを渡してくる行為で、優しさなのかもしれない、と少し揺らぎが出てきたのはいい傾向だ。


ただの勝手な思い込みの話。