Life Itself

生活そのもの

赤ん坊のモノへの接し方

最近、赤ん坊は手に持って遊んでいる物を、僕らに渡してくる。大抵は音が鳴るおもちゃなので、赤ん坊と同じように数回音を鳴らして返してあげると赤ん坊は喜んで、そこから赤ん坊が飽きるまで、もらう・返すのやり取りが続く。単に僕らに音を鳴らして欲しくて渡してくるのか、それとも赤ん坊の思いやりで「面白いから君も遊びなよ」的な感じで渡してくるのか、その本心はわからないが、いずれにしてもおもちゃを独占して遊ぼうとしないところに最近興味を覚えている。

 

勝手な思い込みだが、赤ん坊は、子どもは、おもちゃに対する独占欲が強いと思っていた。もっと大きくなると独占欲が強くなってくるのかもしれないが、今のところは赤ん坊のおもちゃに対する欲をそこまで感じることはない。当たり前だが、母親に対する独占欲はあるように思う(父親に対する独占欲を感じることがないのは複雑なところでもあるが、それは僕自身に欲があるからかもしれない)。


物心ついてからの話だが、僕の場合は、自分のおもちゃに対する独占欲が強くて、それが原因でよく弟と喧嘩していた。でも、どうだろう、もしかすると大人になってからの方が物への執着心は強くなっているのかもしれない。幼少のころにはあまりなかった「思い入れ」という名の厄介なものが、手放すことを拒否させているのだ。「思い入れ」とは過去の思い出への執着でもある。もちろん「思い入れ」自体が悪いものではなく、本当に思い入れがあるものであればそれは大事にしておいて問題がないのだが、今では「思い入れ」のあるモノが多すぎて片付かない。果たしてそんなに「思い入れ」のある、執着すべき過去はあるのか。自分でもよくわからない。いくつかのモノは、「思い入れ」ということばで思考停止してしまい、正常な判断ができずに捨てることができないでいるように思う。この「思い入れ」については一度振り返って、モノに張り付いて取れない「思い入れ」を一旦ひっぺがして整理する必要があると思っているのだが、それは結構しんどいことで、ずっと先延ばしになっている。


赤ん坊のモノへの接し方を見て、改めて自分のモノへの執着に反省させられるというだけの話だ。赤ん坊はとても広い心で僕らにも気を配りながらん、モノに接している。