Life Itself

生活そのもの

赤ん坊の目

平成31年4月25日。
 
赤ん坊の目を見ていると、しばらくは僕と目が合うが、すぐに自分が持っているものや、自分の身の周りで気になるものへ視線を移している。生後数ヶ月の間は、視線は今ほどは動かず、1つのものをじっと見る時間が長かったように思う。赤ん坊の目を覗き込むと、ずっと目が合うので、次第に赤ん坊の目の中に映る僕自身の姿を吸い込まれるように見るようになってくる。とても綺麗な赤ん坊の目とそこに映る僕自身の姿。赤ん坊の目に映ったところで、それは僕でしかなく、それ以上でも以下でもない。綺麗なのは赤ん坊の目で、それによって僕の顔が美化されることなんてなく、ただのむさくるしい顔だ。
 
今でも赤ん坊の目はとても綺麗だし、覗き込むと僕の顔が映り込むことに変わりはないが、視線が前ほど留まることがないから、その目に自分が映り込んでいるということを、生後数ヶ月まではその映り込んだ自分の姿をよく見ていたということをすっかり忘れていたことに今日気づいた。
 
たしかに数ヶ月前の方が、視線が1つに留まる時間は長かったかもしれないけれど、だからといって前の方が1つのものをじっと見ていたのか。それは赤ん坊にだってわからないことだろうが、視線が留まる時間と、それをどれだけ見ているかということは関係があるのかないのか。認識という意味で言えば、今の方がずっと見ているのは間違いないだろう。生後数カ月は認識は今ほどは強固ではなく、もしかすると認識することがないまま、ただ見ていたかもしれない。でも、認識していなくたって見ることは見ることだ。
 
認識するまで、それが何であるかをじっと見る。そんなことは大人である僕にとっては皆無に等しい。初めて接するものであっても、ある程度の情報があるから、あたりをつけて余裕を持った状態で見る。
 
今の赤ん坊は数ヶ月前の赤ん坊よりもずっと余裕を持って見ることができている。見るものとの関係性が築かれた上で見ている。それは素晴らしい成長だ。
この前の芝生を見るときの赤ん坊の目と接してから、少し前の赤ん坊のことを思い出すことがよくある。何からも解放された、いや解放というのは間違っている、世界の何からも汚されていない無垢な視線。じっと、見る。見つめるというよりは、ただじっと見る。まだ対象との間に関係性が築かれていない、たよりない世界を見る目。