Life Itself

生活そのもの

水色のジャージ

平成31年4月24日。
 
暖冬の割には春に入ってからもしばらく寒さが続き、ヒートテックに冬用の寝間着、毛布までかけて寝ていたが、一気に暖かくなり、ヒートテックは半袖のTシャツにかわり、その上に水色のジャージを着るだけになった。もちろん毛布はかけずに、時には暑さに布団をけとばして寝ている。
 
中途半端に暖かく、昼と夜の寒暖差がある春と秋の今のようなこの時期だけに、水色のジャージを着る。このジャージを初めて着たとき、妻は笑いこけていたが、今は見てみぬふり、つっこむこともない。妻が笑いこけたのは、このジャージのなんとも言えないダサさ故だ。胸には僕の苗字が刺繍され、水色は蛍光がかったビビッドな色、水色の種類で言えば完全にドラえもんの肌の色と一致する。僕だってこのジャージを着ては外には行く勇気はない。頭がでかい僕の体型にドラえもん色の水色、胸には名前の刺繍、見知らぬ人に笑いをこらえさせることになる。
 
このジャージは、僕が高校の時の体育の時間に着ていたものだ。
 
僕がこのジャージを着るのは、なにも高校のときのことを思い出したいから着ているわけではない。単純にこの時期にはいい感じの厚さで、着心地がいいから着ているだけだ。
思い出したいから着ているわけではないが、このジャージに対する執着はあって、その執着は、高校の時に着ていた事実があることから生まれている、と思う。このジャージは絶対に捨てたくない服のうちの1つだ。死ぬまで取っておきたい服の1つ。
 
このジャージほど愛着はなくても、執着があるために捨てることができない服がたくさんある。いい加減、捨てていかなければならないと思うが、難しい。少しずつ少しずつ捨てているが、捨てるたびに後ろ髪を引かれる思いで、仕方なく捨てている。たとえ着ることができないとしても。
 
写真などに残していく手もあるだろうが、触った感じ、見た感じ、実際に着た感じが大切だ。腕のいい写真家なら、写真を撮ることでその感触を思い起こさせることができるのだろうが、僕にはできない。
鬼海弘雄さんの写真には、僕にとっては見知らぬ人の写真であっても、こういった感触を思い起こさせる何かがある。人の写真でなくても、場所の写真でもそうだ。
 
これからも服をため続けるわけにはいかない。だが、簡単に捨てることはできない。こういった思いを簡単になしにはできないときに、表現したいという気持ちが生まれるのかもしれない。
 
最近、もっと文章を書きたいという気持ちにようやくなってきている。服への執着心ゆえか、家族への愛情ゆえか、それとも。別に物語でなくてもいい。