Life Itself

生活そのもの

『キャプテン・マーベル』と記憶について

平成31年4月15日。
 
昨夜のレイトショーで『キャプテン・マーベル』を観てきた。マーベルの映画はどれも、ちょっとだけ知的好奇心をくすぐるところがあって、面白い。観て後悔するというのか、時間を無駄にしたと感じることはあまりない。
 
キャプテン・マーベル』では、僕がずっと考えてきた『記憶』というのがおそらくは1つのテーマになっていて、特に中盤まではその傾向が強く感じられ、いろいろと考えさせられた。
 
『今』から見る『過去』は記憶であり、その『過去』を思うときには、自分にとってはリアルな過去ではあっても、事実そのままの過去ではない。あくまで『今』から見ている『過去』であって、『過去』は『今』ほど事実ではない。過去を100%再現することなんてできないのだ。『今』は、抱えきれないほどの圧倒的な情報量を五感で感じ受け取ることができるが、『過去』に対して五感を働かせることはできない(少なくとも現時点では)。『未来』はというと、寿命の範囲内での未来はやがてやってきて、それを五感で感じることができる。
 
『今』と『過去』というのは決定的に違っている。『今』に優位性があるとかそんなことを言いたいわけではない。ありのままの『過去』というのはありえないということだ。僕はそう思う。
 
もし将来、『過去』を『今』のようにありのまま見ることができたらどうなるか。夢のような話だ。そんなことができれば、僕は戻りたい過去がいくつもある。赤ん坊が産まれてからのこの9ヶ月の間でもそうだ。写真や動画を見ながら、懐かしいなぁ、あの頃の赤ん坊のあの動きをもう一度見てみたいなぁとか思ってしまう。
でも一方で、『過去』は今のようなあり方の『過去』でもいいような気もする。思い込みの過去、何度も思い出す記憶、そして思い出されることのない記憶、ふと何気ない瞬間にあらわれてくる過去。タイムマシーンのように、過去を自由自在に見ることができるようになったらいいかもしれないが、そうすると記憶や思い出の行き場がなくなってしまう。『過去』は『今』とは異なるが、『過去』は今のあり方のままで十分に意味がある。意味というと大げさかもしれないが、過去を思い出すということは人々の人生にとってとても大切であり、それは二度とは戻れないものであるからこそだ。
 
考えはなかなかまとまらないが、『キャプテン・マーベル』を見て思ったことはそんなことだった。
 
青春時代に90年代後半の音楽を聴いた人は『キャプテン・マーベル』を観ると、心が躍る瞬間がきっといくつかある。僕は映画を観終わったあとに、Foo Fightersの『There Is Nothing Left To Lose』がすぐに聴きたくなった。今日たまたまWeezerのカバーアルバム『Teal Album』を聴いたが、なんとなく90年代後半から2000年代前半の懐かしい感じがして、『キャプテン・マーベル』の音楽も合わさって、あぁ今日は90年代後半の感じだったなぁとすごくいい気分になった。    
 
あとは、猫が好きな人は『キャプテン・マーベル』を観ると、すごくいい気分になるかすごく嫌な気分になる。とにかく、猫の存在感は強い。スクリーンで何度もかわいい猫を拝めることができる。