Life Itself

生活そのもの

平成31年4月4日

平成31年4月4日。
 
娘の風邪は今のところ悪化してはいない。昨日よりは良くなっているようで、僕が帰宅してからも機嫌よく遊んでいた。便の調子もいいとのことで、病院へは連れて行かなかった。
 
娘の様子を観察していると、おもちゃに対して飽きを感じ始めているのかもしれないように見受けられることがある。おもちゃで遊ぶときは遊ぶのだが、おもちゃ以外に気になるものを見つけるとハイハイしてすぐにそっちへ向かう。それまで遊んでいたおもちゃは放り投げ、また目的地までの道中にあるこれまでお気に入りだったおもちゃは払いのけながら進んでいく。目的地まで進んでそれを手にすると、だいたいそれは僕と妻にとってはあまり触ってはほしくないものなのだが、目の前におもちゃを持っていこうと見向きもしない。一瞬見るだけ。一瞬見て、それは自分にとって用なしのものだと判断しているのだ。
 
いつぞや、赤ん坊は物を知覚して認識し、対応するプロセスがとても緩やかであることを書いた。今ではそのプロセスはとても速くなっている。対応にはもはや判断が伴っている。それは赤ん坊にとってはあるべき成長の姿なのだろう。ときに判断は親が教えるべきものなのかもしれないが、判断を押し付けることはしたくない。自分で学んで判断してほしい。まだ赤ん坊の娘にそこまで考える必要はないだろうが、判断を押し付けるとそこから先がなくなってしまう。また、まず初めに知覚すること、それが大切であることを知ってほしい。ことばで言ってもわからないだろうが、親としてできることは、できる限り様々なものを見て、触れて、感じる機会を作ってあげること。多少なりとも親の判断が介入することは致し方ないが、赤ん坊が知覚しているときに親が押し付けることは決してしないこと。
 
いくらこう書いていても、きっと親としての判断を押し付けてしまうときがくるだろう。押し付ける行為というのは、知らず知らずのうちにしてしまっていることがほとんどだ。それをできるかぎり少なくするには、赤ん坊と同じようにすべてのものに対して好奇心の心を持って見ること、触れること、感じることだと思う。知覚して瞬時に判断することに慣れている大人は、それを面倒くさいと感じてしまうかもしれない、すくなくとも僕は面倒くさいと感じてしまい、そこから逃避する。見るということは、自分が思っている以上に情報量が多い。ここで言う情報量というのは、五感で感じる情報だ。見て知覚できる情報には、自分の見たいものだけでなく、見たくないものまで含まれる。だからそこから逃げたくなる。見たいものだけを見る。それは条件づけられた瞬時の判断で見ているフリをしているだけだ。情報すべてを見て受け取る覚悟があるか。見るということには覚悟が求められるように思う。