Life Itself

生活そのもの

祖母が使う「かわいい」という言葉

両親が福岡に来た。祖母の様子を見るために定期的に来ているのだが、地元と比べると格段に都会である福岡を歩き回ることを楽しみにしているようで、いつもうきうきとしている様子が伝わってくる。今のところ、祖母の体調はすこぶる良いから、様子を見に来ると言っても顔を見せる程度のものだ。
 
父と母にとっては1ヶ月ぶりに赤ん坊と再会したのだが、この1ヶ月の間での変化に驚いているようだった。この数週間で赤ん坊はできることが増えて、彼女にとっても見える世界が変わってきているはずで、必然、その視線の動き方が、見ているものが、1ヶ月前とはずいぶん変わっている。母は、赤ん坊の表情が豊かになっていて、いろんなものに興味を示していることに喜んでいるようだった。今日は祖母、叔母、父、母、妻、僕とたくさんの大人に囲まれて赤ん坊はとても嬉しそうだった。感心なのは、誰に対しても笑顔を投げかけていることだ。まだ本格的には人見知りが始まっていないが、普段あまり接しない人に会っても泣くことはない。赤ん坊の愛想がいいから、それを囲む大人たちの表情も自然と柔らかくなる。
 
物忘れがひどくなっている祖母は、手首がシワが二重になっているとか、ムチムチして太かぁとか、頬が垂れているとか、同じことをそれぞれ十回以上は言っていた。だが、それ以上にかわいいという言葉を百回くらいは言っていたような気がするし、ずっと満面の笑顔だった。赤ん坊と同じく、祖母が笑顔であることも、僕らにとっては嬉しいことだ。
 
かわいいで思い出したけれど、糸井重里さんと芦田愛菜さんのSwitchで、糸井重里さんが『かわいい』という言葉は大好きだと言っていた。「かわいいというのは社会の酸素である」と。
「かわいい」という言葉はなんだか若者言葉のようにも感じてしまうところもあるが、祖母が使う「かわいい」は、それこそかわいい言葉だ。祖母の口から出てくるときの響きもいい。赤ん坊はかわいいとしか言いようがない存在ではあるが、祖母が使う「かわいい」はとても純度の高い「かわいい」だと思う。その「かわいい」には「かわいい」以外の何の意味も含まれていない。年齢からすれば一番多くの言葉を発しているはずの祖母だが、祖母の言葉は余計な意味が削ぎ落とされていってどんどん純化してるように思われる。