Life Itself

生活そのもの

2018/11/18

赤ん坊が泣いたとき、あやすために歌うことが多いのだけれど、何かを歌おうと思ってもとっさに歌が出てこない。持っているCDやiTuensのストックからは何万曲も聞いたことはあるはずだが、なぜか歌うために思い浮かんでくる曲は数十曲もないのである。歌が思い浮かんで、いざその歌を歌おうとしても歌詞がわからなくて結局歌うことができないので、実際に歌うことができるのは10曲程度だろうか。 
 
歌詞を完全に覚えている歌というのは本当に少なくて、少しでも歌詞にあやふやなところがあるとあまり歌いたくならなくなる。そういえば、中学の頃に音楽のテストで校歌の穴埋め問題があって、この問題は先生からすればサービス問題だったのかもしれないけれど、いつもスラスラと歌っているのに僕は全ての穴を埋めることができなかった。僕は昔から勢いで歌っているのか。歌うときは、歌詞の意味はほとんど考えずに歌っているような気がする。 
 
これまで何度も『やさしさに包まれたなら』を歌ったあげたせいか、この歌だけはなんとか歌い切ることができて、結局この歌に頼ることとなる。しかし、最近では『やさしさに包まれたなら』を歌うことにも飽きてきて(赤ん坊も少し飽きているように見えることがある)、細野さんの『恋は桃色』や、フォーク・クルセダーズの『悲しくてやりきれない』などを歌っているのだけれど、赤ん坊に歌う歌として『悲しくてやりきれない』はどうなんだろうと思いながら歌っている。メロディーは良くても歌詞がね。
 
 『悲しくてやりきれない』はウクレレのワークショップで歌う機会があって、それでなんとなく歌い切ることができるのだけれど、歌い切るためにはおそらく反復で体に覚えさせることが必要で、しかしいくら反復して覚えたつもりでも校歌の穴埋めができなかったように、完全に覚えることはできない(あくまで僕の場合だが)。完全に歌詞を覚えたい欲求があるわけではないけれど、赤ん坊に歌ってあげるときには目を見ながら歌ってあげたいので、歌詞を見ながら歌うことはしたくないから、必然的に歌詞を覚えざるを得ない。まぁ、とは言っても、歌を歌ってあげるというのはとても気持ちがいいものだ。歌いたいから歌うというよりは、聞いてくれる人がいるから歌う。自己満足のためではなくて、他の人のために、その人へ向けて歌う。これがここまで気持ちがいいとは、カラオケでも、ウクレレのワークショップでも感じたことはなかった。気持ちがいいものなので、歌詞につっかえてストレスを感じるというのはもったいないなぁと最近思ってきた。それに、赤ん坊は僕が歌っているとき、歌を聞いているだけではなくて、口の動きをを見ている。歌詞があやふやになって口の動きがモゴモゴすると、あー歌えないんだね、ごまかしているねと赤ん坊にはバレてしまって、それ以上歌を聞いてくれなくなることもある。赤ん坊には見えているのだ。     
 
そういうわけで、最近は歌を覚えたいと思っている。