Life Itself

生活そのもの

2018/09/22

月に5回と決めれている自宅勤務だが、今月は公休と自宅勤務がうまいこと続いて、一昨日から来週の木曜日までずっと自宅勤務だ。
ギリギリまで寝ることができるし、昼休みやちょっとした小休憩で赤ん坊の顔を見ることができるのはとてもいいが、1日中ずっと同じ部屋から動かないので、メリハリがつかず、集中力もやや散漫という感じである。
日は1日中ずっと忙しく、メリハリがつかない中で休憩もほとんど挟まずに仕事をしていたので、仕事以外何もしていないし、考えていない。ただ、昼休み時間の間に、いま読み進めている福岡伸一著の『生物と無生物のあいだ』にとても印象的な文章があったので、ここに引用しておく(引用している文章からはあまり感じられないかもしれないが、この本はタイトルが示すとおり生物学の本だ。読んでみてわかるように、とてもわかりやすく、イメージを喚起させるような文章で、文系の僕にとってはとても難しい内容であるにもかかわらず読むのが苦にならない)。
 
 
 誰もが急ぐ歩道の靴音、古びた鉄管をきしませる蒸気の流れ、地下に続く換気口の鉄格子から吹き上がる轟音、塔を建設する槌音、壁を解体するハンマー、店から流れ出る薄っぺらな音楽、人々の哄笑、人々の怒鳴り声、クラクションとサイレンの交差、急ブレーキ……。
 マンハッタンで絶え間なく発せられるこれらの音は、摩天楼のあいだを抜けて高い空に拡散していくのではない。むしろ逆方向に、まっすぐ垂直に下降していくのだ。マンハッタンの地下近くには、厚い巨大な一枚岩盤が広がっている。高層建築の基礎杭はこの岩盤にまで達している。摩天楼を支えるため地中近く打ち込まれた何本もの頑丈な鋼鉄パイルに沿って、すべての音はいったんこの岩盤へ到達し、ここで受け止められる。岩盤は金属にもまさる硬度を持ち、音はこの巨大な鉄琴を細かく震わせる。表面の起伏のあいだで、波長が重なりあう音は倍音となり、打ち消しあう音は弱められる。ノイズは吸収され、徐々にピッチが揃えられていく。こうして清流された音は、今度は岩盤から上に向かって反射され、マンハッタンの地上全体に斉一的に放散される。
 この反射音は、はじめは耳鳴り音のようにも、あるいは低い気流のうなりにも聴こえる。しばしば、幻聴のようにも感じられる。しかし街の喧騒の中に、その通奏低音は確かに存在している。
 この音はマンハッタンにいればどこででも聴こえる。そして二十四時間、いつでも聴こえる。やがて音の中に等身大の振動があることに気がつく。その振動は文字通り波のように、人々の身体の中へ入っては引き、入っては引きを繰り返す。いつしか振動は、人間の血液の流れとシンクロしそれを強めさえする。
 この振動こそが、ニューヨークに来た人々をひとしく高揚させ、応援し、ある時には人をしてあらゆる祖国から自由にし、そして孤独を愛する者にする力の正体なのだ。なぜならこの振動の音源は、ここに集う、互いに見知らぬ人々の、どこかしら共通した心音が束一されたものだから。
 こんな振動を拡散している街は、アメリカ中、ニューヨーク以外には存在しない。おそらく世界のどこにも。
 
福岡伸一(2007)『生物と無生物のあいだ』株式会社 講談社 pp205-207

 

 
僕は2011年、震災の直後に一人でニューヨークに行った。知人と一緒にニューヨークをまわる予定だったが、ニューヨークに着いたその日にドタキャンをくらい、1人でニューヨークをさまようことになった。ホテルも現地で探し回った。途中白タクに250ドルぼられた。散々だった。もう5日間ホテルから出ずに過ごしてやろうかと思った。
しかしそれも耐えきれずに一歩ニューヨークの街に足を踏み出すと、最初はその喧騒にただ圧倒されたが、徐々にその街の魅力に取りつかれ、地下鉄やバスを利用しながら街を歩き回った。金もなかったからほとんど何も買うことができず、美術館にも行っていないし、自由の女神すら見ていないが、1人で歩き回っている間とても心地の良い孤独を感じていた。
 
ニューヨークにいたと言ってもたったの5日間ほどで、福岡伸一さんのように何年もいたわけではないが、それでもこの文章を読んで、あのときに感じた心地よい孤独が何だったのか、今になって腑に落ちた。