Life Itself

生活そのもの

地面のノイズ

朝からベビーカーに赤ん坊を乗せて近くの公園へ散歩しに行った。公園へは徒歩5分程度だが、その道中ベビーカーを乗せて歩いていると、道がでこぼこしていることに初めて気づいた。僕や妻が歩く際には全く気づかない、その程度のものだが、それでもベビーカーを押していると結構な障害に感じる。おそらく車椅子で移動している人も同じことを感じるかもしれない。
公園内の道はきれいに舗装されていて、そこまででこぼこした感じを受けないが、それでもちょっとした段差や石ころがベビーカーにとっては揺れる原因になる。揺らされている赤ん坊を見ると不快な顔をしているわけではなかったが、押しているこちら側が神経質になってしまう。
 
子どもの頃はよく躓いて転んだものだ。体に比べて頭が大きいことから、バランスを失ってよく転んでいたのかもしれないが、ちょっとしたものに躓いていたように記憶している。何に躓いていたかは覚えていないが、子どもの歩幅で、子どもの視線で、子どもの小さい体で足で歩いていると躓くもの、大人の僕らからすればノイズでしかないものがそこら中にあったのだろう(うんちもよく踏んだ)。よく躓いてはいたが、地面に落ちているものにもよく気づいて、拾っては遊んでいた。小学校も高学年になるとほとんど躓かなくなったが、地面にあるものには興味がなくなってビデオゲームばかりをするようになった。
 
今は僕ら親がベビーカーを押しているが、自分で立ち歩くようになると、よく転んで、地面のでこぼこや地面に落ちている色んなものに気づいて遊んでいくことだろう。女の子の遊び方は男の子のそれとは違うかもしれないが、外でも遊ぶ子どもに育つといい。これから地面の世界を初めて知ることになる赤ん坊が羨ましくも感じるが、子供と一緒に過ごすことで改めて気づくものがたくさんあるだろう。ベビーカーを押すまで地面のことなど気にすらしていなかったのである。地面はノイズにすらなっておらず、ただ淡々と歩いてる、いや家までオートマチックに足を運んでいるだけだった。
 
赤ん坊の目の動きは面白い。何を見ているのかはわからないが、何かを見ている。赤ん坊が見ている方を向いても何があるわけではない。でも何かがあるのだろう、それはきっと大人にとっては意味のないもの、ただのノイズなのかもしれない。ノイズはあちらこちらにある。僕ら大人はそれを邪魔なものとして遮断している。ノイズのある世界は、豊かな世界でもある。赤ん坊に一緒にいると、ノイズのある豊かな世界を知る、思い出す。それはかつてあったもの、ずっとあったもの、しかしないものとしていつの間にか忘れてしまったものである。
 
赤ん坊は色んなことを教えてくれる。