Life Itself

生活そのもの

2018/09/06

数日前から赤ん坊の泣き声に変化が見られるようになって、色んな泣き方をするようになってきた。
喃語なのか泣き声なのか判別ができないような泣き方をすることがあれば、猫のように短い泣き声を何回も出してなにかを訴えかけるような泣き方をすることもある。
 
堀江敏幸『なずな』の2回目を今日読み終えた。今日読んでいた箇所で、ちょうど今の赤ん坊の泣き方のことを言っているような表現があった。少し長くなるが、引用する。

 ところが、昨晩あたりから、なずなはすでに使い分けられるようになっていた異なる声の、異なる箇所をうまく結んで、まったくちがう響きと伸びのバリエーションを展開してくれるようになった。別種の声音を組み合わせ、解きほぐし、再構成して外に出す。赤ん坊の周囲に出来することがらは、つねに不意打ちに属する。良し悪しはべつとして、予測していなかったときに後戻りのできないなにかが起きるのだ。上機嫌なはずのなずなの声が、艶のある、わずかにビブラートを効かせた悲しいの調子を帯び、他方、悲しさ、さみしさ、空白を訴えているはずの場面では、湿っぽくならず、涙のにおいなど微塵もない乾いたのびやかな声を発する。「あ」と短く発生しているだけなのに、それが「あああ」と持続する際の声帯の使い方を、聴く者に意識させてくれるのだ。実施、ミルクを要求しているのに、泣いていながら泣いていないという状況が見られるようになって、私はいくらかとまどっていた。はじめて耳にするこの声で、なずなはなにを訴えているのか。それを一刻も早く、しかも正確に読み取らなければならない。苦しげな様子はなかったけれど、自然に漏れ出している声にしては、未開の抑揚がありすぎた。
 ベビーベッドの上からじっと見つめているうち、はっと気づいた。そうか、これは異常を訴える信号ではなく、なにかべつの心の動きを表現しようして強弱をつけ、拍を打つように全身を使って整えた、言葉の代わりの声なのだ。少し前までは、そのように見え、そのように聞こえるのだから、たぶんこういうことだろうと、こちら側に思い込みの余地を許していた。しかし、そうではなかったのだ。なずなの「表現」は、驚くべき速度で進化していたのである。しかも自分の喉から発した声を、彼女はまちがいなく自分の耳で聴き分けていた。はじめて聞く音ではなく、むしろ親しい身体の一部だと理解しているふうでもあった。声を出した自分と、ほんの数秒後の自分とのずれを楽しんでいるみたいに。
 
堀江敏幸(2014)『なずな』株式会社 集英社 pp421-422
 
お腹が空いたとかで完全に泣きモードに入っているときは、ミルクをあげる以外にどうしようもないのだけれど、泣きそうな顔で踏みとどまっているような表情を見せるときは、目を見ながらあやすと笑顔に変わる。小説にもあるように、きっと赤ん坊は何かを心の動きを表現しようとしているのだろう。たぶん心の動きを表情として出すことがまだ難しいのかもしれない。赤ん坊は起きているとき、絶えず色んなところを見ている。そこで何かを知覚して対応しようとしているのだろうと思う。自分でその対応方法を探っているのだ。いや、対応というのはヨガスートラの言葉に引っ張られすぎている。対応ではなく、この場合は反応の方がてきせつな言葉だ。
赤ん坊は、知覚して、いまようやく認識できるようになってきて、そしてそれに対して反応しようとしている。この知覚、認識、反応というプロセスがとても緩やかで、この緩やかさが僕にとってはとても新鮮に感じる。それはかつて僕がいた世界なのだろうけれど、遠いむかしに置いてきてしまったもので、いま初めて接するかのように赤ん坊を通してその世界に接している。