Life Itself

生活そのもの

2018/08/03

新生児があと2日ということで沐浴の様子を写真と動画におさめておこうという話になった。最初の数日間は、沐浴の間、号泣していたのだけれど、それからは緊張がなくなって気持ちよくなってきたのか、とても可愛らしい表情をするのだ。
ということで今日の沐浴の時間のほとんどは僕は写真か動画を撮っていた。とても愛らしい表情をしていて、写真に残しておいて良かったと思っている。
 
ただ、一方で写真や動画を撮るという行為は、その間の時間は現在の時間から離れるということであって、未来の時間のために現在を過去として、思い出として残すために費やすことになる。動画として愛らしい表情をおさめることができたが、その間、僕は赤ん坊の表情は見ていない。ファインダー越しには見ているけれども、僕の意識は現在にはない。未来に残すという意識のもと、現在の時間を消費している。
 
これはとても難しいことだと思う。写真に残さなければ、新生児の赤ん坊の姿は一生見返すことができないが、写真や動画として保存しておけば、いつでもそれを見返して記憶を蘇らせることができる。そのかわり、貴重な、その瞬間にしかない時間を犠牲にしなければならない。
 
今年のフジロックでは、会場のどこを見渡しても、ライブの様子をスマホで撮影している人々の姿が目に入った。僕はBob Dylanのライブを最前列で観たのだが、最前列でさえ、いや最前列だからこそと言うべきかもしれないが、ほとんどの人がスマホで撮影していた。中にはライブの最初から最後までほとんどの時間をスマホで撮影している人もいた。レジェンドのBob Dylanを観たということを記録として残すために、前の列まで行ったという人もいるのかもしれない。
 
僕が初めてフジロックに行った15年くらい前は、ライブの様子をカメラで撮影することを厳しく禁止されていて、撮影しようとすると、ガタイのいいセキュリティに人にライトを当てられて注意されたものだ。今は時代が変わってしまった。デジカメを持つ人は少なくなった代わりに、ほとんどの人が高画質のカメラとしても利用できるスマホを持ち歩いている。そのような状況にあって、もう規制することは難しいと判断したのかわからないが、今ではライブの様子を撮影しても注意されることはない。
 
あくまで個人的な感想だけれど、わざわざライブ会場に行って、自分の目でライブを観ることができるにもかかわらず、スマホの画面を覗きこんでばかりいるのはもったいぁと思う。ライブというくらいだから、その音楽やパフォーマンスはそこでしか体験できない。その場、その瞬間のものだ。スマホを除きながらライブを観る限り、意識はそこにはない。音楽に、ライブに感覚が集中しているということはあり得ない。最前列にいるのに、なぜライブに集中しようとしないのだろう。本当にもったいないと思うし、Bob Dylanは最前列だったからまだよかったが、最前列より後ろになると必ずスマホの画面が視界に入るわけで、はっきり言ってとても目障りだった。
 
僕にも写真や動画に残したいという誘惑はないことはない。僕はライブ中一切撮影していないから、後で見返すことはできない。音源だけでもいいから、またBob Dlyanのライブを聴きたいなぁと思う(たぶんブートレグでいつか聴く機会があると思うけれど。そのブートレグも録音や撮影している人がいるから手に入れることができるわけで、そういったものをこれまでも購入している以上、完全に批判することができる立場にいるわけではないことは承知している)。それでもライブという極めて贅沢な体験を、スマホの画面を見て過ごすことほど愚かなことはないと思うのである。個人的な意見だけれど。
 
また改めて戻るけれど、僕が今日沐浴の時間を撮影して過ごした時間は、もったいなかったなぁと思うのである。今のうち撮っておかなければ新生児の時間は過ぎてしまう。だけれど、新生児の時間を、沐浴という限られた時間を自分の目で見る時間も限られているのである。赤ん坊の成長を自動でいい具合に撮影してくれる機械とかあればなぁとか思うのだけれど、それはそれで自分で撮影したいという思いも出てくるのだろう。
 
赤ん坊と一緒に過ごしていると、時間とは限られていて、あっという間に過ぎてしまうものであることに改めて気付かされる。どういう時間を過ごすのか、その選択はとても重要なものだ。