Life Itself

生活そのもの

2018/06/16

ここ数日間、また耳鳴りがずっと気になっている。寝ている間にも耳鳴りで起きたり、昨日も起きてすぐに1分ごとに耳鳴りがなった。
原因はわからない。既に何度か病院行っているが、特に病名があるわけではない。僕が神経質なだけかもしれないが、1年で数回は耳鳴りが気になる時がある。
 
1年中、体のどこかを気にしている。少し前までは右手の親指、その前は右鼻の慢性的な詰まり、さらにその前は...もう忘れてしまったが、何かを気にしていた。
 
いつも体のどこかしら不調になるというのは、1つはそれだけ年を重ねたということがあるだろうが、心/マインドの問題だと思う。たぶん心に空白があるのが我慢できないのだ。空白があればそれを埋めたくなる。別に大した不調ではなくても、空白を埋めるために、そこに意識を向ける。意識を持っていく。不調と自分が同一化していく。同一化している間は、そればかりに気を取られているわけだから、楽なのだ。心に空白があり、自由に動くことができる状態というのを、おそらく僕自身そこまで望んでいない。空白がある状態が好ましく、その状態を心地よく感じた記憶があるにもかかわらず。空白がある状態というのは、ある意味で面倒なことなのだ。短時間空白の状態にいることはそんなに難しいことではないけれど、長い時間その時間を保つのはとても難しい。少なくとも、僕はそう感じている。
 
30歳を過ぎれば、誰しも体のどこかに不調を感じる。その不調をどう処理するかはその人次第であるのだが、不調に関してある人が言っていたことをよく思い出す。
不調には意識は向けない。ただ、意識をそこに置く。つまり、不調を対象化せずに、ただ在るものとしておく。意識はするが、向き合わない。確かそんなふうなことだ。
 
不調は体が発する信号なのだから、それを無視すべきではない。その信号は受け取った方がいいものだ。ただ、不調を対象化して、真正面から向き合ってしまうと、マインドがそこに奪われてしまうことになる。無視はしないが、対象化もしない。ただ、在るものとして、意識に置く。そこに空白は存在する。
 
 
今日は些細なことで妻と言い合ってしまった。僕が我慢すべきだった。妻は何も悪くなかった。僕が我慢できなかったことで、妻にひどいストレスをかけてしまった。おそらくはお腹の中の赤ん坊にも。いま、こんな時間に、妻は1人で散歩に出かけている。
妻や赤ん坊のことを毎日書いていながら、肝心な時に感情を自制できない。と、こう書きながら、僕は自分自身に対する怒りの感情を抑えることができないのだ。