Life Itself

生活そのもの

2018/06/11

ブログという形式で日記を書き始めたのが、昨年の11月。今まで日記を何度も書いては3日も持たずに終わったのが、半年以上続いている。途中、仕事の都合で書くことができない時期もあったが、その時期を除いて、毎日書いているはずだ。
毎日書いているとどうしてもダレてしまう。というより、毎日書くべきことなどないのだ。書くべきことがなくても、とりあえず書くしかない。1日でもサボってしまうと、それで終わり。もう書くことができなくなる、きっと。何もないのに無理やり仕方のないこと書いていて何の意味もないのではないかと思い、途中辞めようと思った時期もあったが、内容ではなくとにかく続けることだ、と書き続けているうちに、毎晩PCを開いて書かないと気持ち悪くなるようになった。今では書くことに苦痛を感じることはほとんどない。内容などどうでもいいと思っているわけではないけれど、内容よりも書くという行為そのものに意味を見出している。否、意味など何も感じていないかもしれない。ただの習慣だ。ただの行為というだけだ。
 
日記を毎日書いていると、日々は連綿と続いているのだということを感じるときと、今日と明日の間には明らかな断絶があると感じるときがある。日記というのは、その日でないといけない。「いけない」わけではないかもしれないけれど、そうあるべきだ。昨日でもなく、明日でもなく、今日。今、ここ。これはヨガで学んだことが大いに影響している気がする。あらゆるところにヨガが顔を出してくるのはちょっと鬱陶しいが、でも日記というのはそういうものだと思う。昨日と同じことを書いてはいけない、そんな気になる。昨日の続きを書いてはいけない、今日は今日のことを。今日は昨日ではなくて今日なのだ。日記を書いているとそんな気持ちになる。
だが、今日は昨日や明日とは違うと考えている時点で、そのことを気にしている。日記を書くときは、必ず昨日の次のページに書くのだから、昨日のことが目に入る。明日は、今日書いた次のページに書くことになる。今日の時点で明日のことを気にしているわけではないけれど、今日終わるとは思っていない。今日終わるような書き方をすることはない。あくまで今日のこととして書く。今日は今日、明日は明日、そんな感じで割り切っている。日記は続くものだ、どこかでそう思っている。
 
妻のお腹の中の赤ん坊がいることを意識してから、書き方が変わってきた。未来を強く意識するようになった。過去よりも未来を見るようになった。今よりも未来。今、妻と2人でいるこの時間はとても大切なものだが、赤ん坊がいる未来を既に見据えている。赤ん坊との関係は既に生まれているのだ。赤ん坊が産まれる未来があるからこそ、今を大切にする。時間のあり方が変わってきているのだと思う。そう考えると、今は1つの大きなターニングポイントということになる。赤ん坊が産まれるとまた時間のあり方は変わってくるはずだ。赤ん坊が出産する直前のこの時間というのは、特別なものだと思う。