Life Itself

生活そのもの

2018/05/17

最近、妻の運動に付き合うために夜中に公園へ散歩に行くことが多く、僕は散歩している間、一眼レフを持って写真を撮りまくっている。赤ん坊が産まれた後にできる限り綺麗な写真を撮ることができるように練習する意味と、もちろんその夜中の散歩を記録する意味がある。

被写体になるのは、時々妻と、主には公園の風景である。湖に映えた建物のネオン・雲や、ライトに照らされた木々など、被写体にできそうなものを見つけて、とりあえず撮ってみる。最初は液晶モニターを見ながら撮っていたが、歩いている内に汗をかいてきて、液晶が鼻の油で汚れてしまうので、ファインダーを覗いて撮る。ほとんどカメラを触ったことがない素人が撮るので、ぶれてしまいとても見ることができないものであったり、構図が悪すぎてなぜそれを撮ったのか自分でもわからなかったり、とにかくまともな写真はほぼ1枚もない。それでも楽しく撮っている。

しかし、被写体の見つけ方というのか、なぜそれを撮る対象としているのか、明確な理由がないのである。言葉にできないだけでなく、そこにあまり感情が反映されていない。歩きながら景色を見て、知覚する。ある景色を対象として認識する。そしてその対象に対して反応する。その結果が写真という形として具現化する。その反応が何にも拠っていないのである。強いて言えば、教本にあるような写真を試しに撮ってみたいという気持ちがあるということだが、そこには何も感情はない。

持っている数は多くないけれど、1年に1回は写真集を買うようにしている。購入した写真集を眺めていると、何気ない洗濯物を干した日常の東京の風景であっても、東京ではない佐世保の祖母の田舎や、宝塚でたまたま通った通りや、亡くなった祖母の話し声や、道端でたまたま出会って餌をあげた猫、働いていたゴルフ場の草の匂い、写真の風景と関係なく様々なことを思い出し、想うのである。写真に喚起性があると言ってしまえばそれまでだが、眺めている写真の更に奥には普遍的なものがある。そういう写真を見て気づくのである。目の前の風景にどれだけ見逃しているものがあるのか、目の前の何気ない景色の中にどれだけ圧倒的な情報があるのかということを。目の前にあるものを何の偏見もない目で見れば、どれだけの気づきがあるのか。写真家は少なくとも、目の前の景色をしっかりと見て、それを四角形の写真に切り取っている。

僕は写真を撮る時、まだありのままの景色を見ていない。向き合っていない。ただモノとして撮っているだけだ。そのことに気づいてはいるが、あまり見ないということが習慣化してしまった今、しっかりと見るということは、かなりの意識付けが必要だと思う。赤ん坊が産まれたってそうだ。景色をしっかりと見ることができないのに、どうして我が子を見ることができるだろう。

産まれるまであと1ヶ月少し。習慣化されてしまったものを少しずつでも解消していく必要がありそうだ。