Life Itself

生活そのもの

2018/01/09

 

いつも実家に帰る時はバスか電車か迷う。
 
今回は電車で帰った。電車の方がバスよりも車窓から見える景色が近くて、車窓からなかなか目を離すことができない。
電車で読むために、本を3冊持ってきた。田中小実昌さんのエッセイ、古井由吉の「山躁賦」と高橋源一郎の「優雅で感傷的な日本野球」。
作者には失礼かもしれないが、今回の3冊は車窓の景色を見ながら読むときにちょうどいい。田中小実昌さんのエッセイは言わずもがな、高橋源一郎の小説には適度な抜けがあるから、まとまりじゃなくて少しずつ読むことができる。古井由吉さんの文章は難解で小説の世界の中に入るのに時間がかかって、同じ箇所を何回も何回も反復することになるのだが、その反復が車窓からの景色を見ながら読むのにまたいい。 
 
今回の帰省時の電車の車内には小さな子供が多かった。車内は結構な賑やかさだった。
電車に乗っている2時間の間は車窓からの景色も見るし、本も読むが、ずっと音楽も聴いている。 iPhoneに入れた音楽をAirPodsで聴く。だが、AirPodsは遮音性がないので、音楽を聴いていても、同時に車内の子供の賑やかな声が聞こえてしまう。こういう時だけはAirPodsは不便に感じる。
 
キセルのThe Blue Hourを聴いていた。先日発売されたこの新譜は、最初はそこまでしっくりこなかったけれど、何度か聞いていくうちにとても心地いい音楽として感じるようになってきた。
とくに車窓から見える景色とThe Blue Hourはすごくあっていた。
音楽を聴きながら車窓の景色を見ると、ふとした瞬間に記憶が蘇ってくる。廃れた家や、洗濯物を干す人の姿や、電柱や、車窓に迫ってくる木々やその葉や、川に流れる水。そういった景色の断片が古い記憶を呼び起す。不思議なのは景色全体というのではなくて、断片であるということだ。当たり前のことだけれど、車窓の景色は動くから、全体をぼーっと眺めるのではなく、断片に目が行きがちになるということもある。
断片断片を追っていると、知らず知らずのうちに記憶の破片が合わさるということもあるのかもしれない。それで古い記憶が呼び起こされるのかもしれない。
 
数年前のことだけれど、今回と同じように車窓の景色を見ていると、今まで一度も思い出すことがなかった、だけど僕にとってはとても大切な思い出を思い出すことがあった。
たぶん有田駅に着く手前のことだったと思うけれど、駅に行く着くまでの景色を眺めていると、迫ってくる記憶があった。迫ってくる記憶は徐々に鮮明になってくる。しばらくは何のことかわからない。が、それがとてもあたたかいものであることはわかる。
駅に着いてようやく思い出した。小学校に入る手前の頃だったと思うけれど、今は亡くなった祖母と祖母の友人複数で田舎町の銭湯に行った。小さい僕を1人だけ男風呂に入れるわけにもいかないから、僕も祖母たちと一緒に女風呂に入った。銭湯の湯気で前が見づらい感じや、祖母含めてみんながよくしてくれたことを覚えている。
祖母は僕を大変かわいがってくれていて、幼稚園にも迎えに来てくれる祖母のことが僕は大好きだった。
 
銭湯を出た後の風景もかすかながら覚えている。一本道で土産屋が立ち並んでいた。
 
なぜこのことを大切な思い出として感じているのかはわからない。それまで思い出しもしなかったのに。女風呂に入ることに背徳感があったように記憶しているが、初めて覚えたであろうその背徳感が原因なのだろうか。わからない。背徳感があったとしても、風呂の中がどんなふうであったかはまったく覚えていない。
 
でも、このことを思い出した時、僕はこれ以上にもない幸福感で満たされた。過去にとらわれていたのだろうか。そうかもしれない。だが、僕は同時に車窓の景色をしっかり見ていたのである。