Life Itself

生活そのもの

LONG SEASON(仮)

 正午を回った。あと40分もすれば、一部の生徒たちが学食のランチ券を購入しにこの寮に戻ってくる。寮生はランチ券を特別価格で購入することができるのだ。昼はこの時間だけ少し慌ただしくなる。
 
 昼の間、寮の中はゆったりとした時間が流れる。掃除は掃除のおばちゃんがやるし、定期的に寮の中を見回る以外に特にすることもない。定期的に回ると言っても1時間に一度回るくらいだ。それは強制されてやるものではなく、僕のタイミングでやればいい。あまり寮の中を動き回るとかえって掃除のおばちゃんの邪魔になるし、寮に不審者が侵入しないように、異常なことが発生しないように寮の玄関受付でもある寮監室でただ時間を過ごす。寮を一歩出れば目の前に中学の校舎があって、休み時間になると生徒同士の掛け合いや教室を移動する音が聞こえてきて、授業中の時間でも教師と生徒が作り出す静まり返った音がこちらまで届きそうなくらいだが、寮監室はただ何にも満たされない空間があるだけだ。
 
 僕は昼夜問わず1日中寮にいる。寮監として、住人として。たまに寮母代行もする。土日を除けば、生徒がいるのは朝と夕方以降だけで、それ以外はこの大きな建物の中には僕を含めて数人しかいない。僕がいつも座っている席からは、左手にある玄関口か、右斜め前にある小さい窓からしか外を見ることができない。玄関口から見えるのは、音楽室と一部の部活室がある校舎と、その校舎の前に生えている大きな1本の木の一部分だけだ。生徒がそこを出入りするとき以外は、その木の一部分、垂れ下がった枝葉が風で揺れることくらいしか見える景色が変化することはない。右斜め前の窓から見えるのは空だけで、たまに鳥が飛んでいるくらいを目にする。この泰然とした景色を前に、ただゆっくりと小説を読んで、夕方まで生徒が帰ってくるのを待っている。
 
 僕は10年前までこの寮に住んでいた。中高と6年間をここで過ごした。そして、いまは寮監としてここにいる。仕事の場として、また生活の場として、この寮に戻ってきた。そう、僕は戻ってきたのだ。過去の記憶でいっぱいのこの寮に。
 
 僕が10年前に寮で見たものと今は繋がっている。寮のあらゆる場所には記憶が張り付いている。これは決してスピリチュアルな戯言ではない。目で見ればわかることだ。建物のあらゆるところにシミがある、傷跡がある。だれがつけたものかはわからないが、これまでにつけられたもの、僕が寮にいた頃から、それよりずっと前からついているものもある。もちろん僕にとって見覚えのあるものだって数多く残っている。中学2年の部屋のドアにはビッグリマンチョコのシールが隙間なく貼ってあるが、それは僕の2つ上の先輩がその部屋に住んでいた時に貼ったものだ。それから1つ上の先輩が、僕らの学年が、後輩が次々にその部屋へ引っ越しをしたが、だれもシールを剥がそうとするものはいなかった。隙間なく貼られたそのシールはキラキラしてとても美しかった。ところどろこ剥がれているところもあるが、今でも美しい。
 見回りをしていると、ビックリマンチョコのドアのように分かりやすいものでないにせよ、当時の物に出くわすことがある。その時、その記憶に触れ、時にそれが勝手に浮遊することがある。浮遊した記憶は、他の記憶を呼びこむことがある。記憶は固定されたものではないのだ。記憶は変形する。記憶と記憶がぶつかることによって、そしてそこに僕が介在することによって。僕は寮監としてこの寮に戻ってきてそのことに気づいた。寮内にある記憶は、互いに親密だ。次から次へと記憶はつながっていく。そこに僕が入る。そして記憶が感情と結びつく。感情は記憶に色をつける。
 
 寮内のあらゆるところに記憶が張り付いているというということは、そこに記憶の壁が存在するというなんだろう。記憶で境界線が作られている。寮内を歩いていると、僕は知らず知らずのうちに懐かしく親密な記憶を探している。記憶から記憶へと繋がって、過去に戻ることをいつのまにか欲している。感情で記憶に色をつけようとしている。寮監になってしばらくして、僕はそのことに気づいた。
 
 僕はこの寮に戻ってきたのだけれど、寮は僕のものだけではない。僕は寮監だ。張り付いてしまった記憶を生徒に押し付けることだけはしたくない。
 
 生徒は寮内を歩きまわって、無自覚に生活の痕を残し回っている。ただ痕を残すだけでその痕を振り返ろうとする生徒なんていない。やがてそれが記憶となるが、寮での生活が残り1ヶ月を切るまでは彼らにとってそんなこと知るよしもないのだ。寮での1ヶ月を切って初めて彼らの多くは過去を振り返ることになる。
 
 僕が寮での過去の記憶を元に生徒と接すれば、生徒はそれを感じることはなくとも、僕自身の囲いへ誘ってしまうことになる。常に過去を現在で更新していくことが必要である。今ここで見ているものは常に最新のものでなければならない。自らへの課題であるかのように語ってはいるが、生徒と同じように目の前のものに接したいだけなのかもしれない。だとすれば、これは単なる欲だ。これも一種の過去で経験したものへの哀愁なのかもしれない。欲であれ何であれ、生徒へ過去の記憶で囲うことさえなければ問題はない。