Life Itself

生活そのもの

2017/11/19

誰だったか忘れたが、映画界の巨匠が、良い映画というのは1ショットだけ良いというのがわかるし、1ショットだけでも観た人の印象に深く残ればいいみたいなことを言っていたと記憶している。「良い映画というのは1ショットだけ良いというのがわかる」と言った人と「1ショットだけでも観た人の印象に深く残ればいい」と言った人は別だったかもしれない。ニュアンスだけで覚えているので、まったく違うことを言っている可能性もある。とりあえず、誰が言っていたかがわからないので正確に引用することはできないから、僕がどこかで読んだことを僕の言葉に置き換えて記憶しているものということを前提で以下書くことにする。

 

僕は本を読んでも、すぐに内容を忘れてしまう。読んだ直後であれば、その内容がどのようなものだったか簡単に説明することができるかもしれないが、読み終わって1週間も経てばたぶん説明できなくなる。1冊本を読み終わったらその読み終わった時の気分で次の本を選ぶから、その2冊の本にはどこかしら僕にとって似たものを感じているということで、2冊目の最初の方は前の本の印象を少し引きずっていることが多い。徐々に2冊目に入り込んでいくが、完全に入り込むこむまではそれぞれの本で得た印象が影響し合う。だから、後々に思い出した時に、それがどの本で書いてあったものか完全に記憶違いをしていることもある。とてもいい読み手とは言えないと思う。

全体の内容は忘れてしまうけれど、素晴らしい本を読むことができたと思えたときには、その1場面、もしかしたら1行だけかもしれないが、記憶に刻み込まれている。そういった記憶は自分から引き出すことはできないけれど、ある時に引き出される。何かを見た時や誰かが何かを言った時にふと思い出されるものであって、僕が自由自在にその記憶の引き出しを開けることはできない。この前も書いたけれど、この何かを体験した時に別のことが思い起こされるというのは、非常に大きな幸福感を覚える。

本を読んでも内容を覚えていないと言うと何のために本を読んでいるのかと思われるかもしれないが、本を読みながらあれこれ考えたり思い出したり、前述したように本を読んだあとにその本の内容を思い出したり、本を読みながら体験したことが確実に自分に影響を与えていて、本を読む前と読んだ後ではわずかながらでも自分が変わったと実感できるから読んでいる。いや、「実感できるから読んでいる」とか言うと、何かを目的に本を読んでいるということになってしまう。本を読むことに目的なんてない。効果なんて期待していない。ただ、本を読むという体験の虜になっているだけだ。本を読むというのは体験なのだ。

今回は思いのまま脱線させてもらうことにするが、ヨガをやり始めてインド哲学というものに触れ、その考え方に大きく影響された。ヨガをやり始めて、インド哲学に触れることができて心から良かったと思っている。でも。今までこのブログで書いてきたことを読み返してみると、まだ2週間程度しか経っていないにも関わらずヨガを通して学んだことが色濃く表れてしまっていることに気づく。この「気づく」という言葉も使いすぎている。「気づく」という言葉は、僕の中ではヨガを通して異化されてしまった。もうそれまでの使い方でこの「気づく」という言葉を使うことができない。ヨガを通して学んだことは、使う言葉にまで影響を与えている。そこまで影響を与えてくれたヨガに僕は感謝すべきなのだが、どこか窮屈さを感じている。ヨガでは「今=ここ」にあることを大切にする。過去もない。未来もない。条件付けされた過去を解放しろと言う。「今=ここ」だけを大切にしろと。自分とは体ではない、心ではない。I am that I am.

僕はヨガをやり始めてちょうど1年位した時にプルーストを読んでいた。『失われた時を求めて』で書かれていることを強引に一言で表すとすれば「記憶」だ。「今=ここ」ということと「記憶」というのは水と油の関係であるはずなのに、その当時僕はプルーストを読みながらヨガをやるということにほとんど矛盾を感じず、どこかで2つの間に共通した何かを感じていた。2つが根本的に違うことは知っていた。だけど、どこかで何かが混じり合っている。

それ以来、僕はヨガをやりながら「記憶」について考えている。読むということは体験で、体験であるならば本は読んでいる行為そのものであって、本を読んだあとにあれこれ考えたりすることは意味をなさない。ということは、本を読むその行為中は、いわば「今=ここ」にあって、過去にも未来にもいない。それでもまだ思う。本を読んでいる間に何かを思い出したり考えたりするのは?それは「今=ここ」にあるとは言わないのでは?

考えるということは、過去である。感じるということは、今である。考えている時には、目の前にあるものを見ているようで見ていない。感じているということは、「今=ここ」にあるものから感じ取っている。過去のものから感じることはできない。考える。感じる。では、思い出すというのは?

 

あまりにも脱線し過ぎた。だが、書くというのも行為であるから、書く間に思っていることは変わってくる。その書く間に思うことを逃したくない。何かの目的のために書きたくはない。何かを整理するために、何かを分かつために、理解するために書くのではない。書きたいから書く。書いている間にあらわれてくることに身を委ねたい。論理は破綻していくかもしれないけれど、僕は論理的に書いていくことで失われることの方こそ書きたいと思っている。

 

話を元に戻すと、「1ショットだけでも観た人の印象に深く残ればいい」というのは謙虚な言い方に聞こえるけれど、そこには映画監督の自信があらわれていると思う。映画、音楽、小説その全ては反復可能ではあるけれど、体験するものである限りにおいて一回性である。反復しても、最初に体験したことと同じであることはあり得ない。何回観ても、聴いても、読んでも印象に残らないものは残らない。言い換えれば、一度しか体験していないものでも、印象に残るものは残る。昨日書いたことでもあるが、反復することで新たな「気づき」が生まれることもあるが、それも必ずしもそうであるとは限らない。一回性の繰り返しなのだから、印象に残るかどうかはその対象の質による。1ショットに何かを感じさせるものがなければ、印象に残ることはない。曖昧な引用で申し訳ないけれど、映画監督には1ショットに対する確固たる自信が伺える。映画、音楽、小説を通して毎回どこか印象に残るものと出会えたらどれだけ幸せかと思うけれど、残念ながらそういった出会いはなかなかあるものではない。

 

今回はまとまりがないままくどくどと書きすぎてしまった。自分でも何を言ってるかわからないのを公開するのもどうかとは思うけれど、改めて書く時間はないのでこのまま載せる。