Life Itself

生活そのもの

2017/11/13

記憶というものは不思議なもので、脈絡もない時にふと頭に現れることがある。何十年も思い出すことがなかった記憶が、急に明確な輪郭を伴って顔を出す。移動中にぼーっと景色を眺めている時などにそういった奥深くの記憶がやってくることが多いが、仕事中でもやってこないとは限らない。いつも突然で気まぐれだ。僕はそういった奥深くの記憶が現れることを心待ちにしているが、待っていたところで都合よくそれがやってくることはない。普段思い出される記憶と言えば、たいてい最近起こった出来事や、過去の印象的な出来事である。

奥深くにある記憶といっても、そんな大したものではなく、小さな小さな、なぜそのようなことを覚えているのかといった出来事であることがほとんどだ。しかし、過去の何気ない日常を鮮明に思い出すことほど胸が一杯になることもあるだろうか。こんなことを言うと記憶に取り憑かれているように思われるかもしれないが、そうではない。僕は奥深くの記憶が思い起こされることを心待ちにはしているが、自分から探すことはしない。向こうから突然やってくるのをただ待つだけ。いや、いつ向こうからやってくるかわからない、しかもそれがどのようなものかわからない記憶をひたすら待つ僕はもしかしたら記憶に取り憑かれているのかもしれない。「条件付け」から解放されたいと常々言っているのに。

 

自ら過去のことを、例えば6年間過ごした寮生活を思い出そうとしても、数多くの記憶は頭によぎるが、輪郭が伴わない。五感を通じて感じていたはずの一瞬一瞬の出来事を、その匂いを、布団の感触を、同級生が娯楽室から戻ってくる足音を、朝の点呼の時の眠たさを、点呼が終わるまで中庭で立って待つ時の冬の風の冷たさを、そういったそれぞれの感覚の断片しか思い出すことができない。今感じているわけではないのだから、当たり前のことだ。

 

輪郭を伴わない記憶も、小説、映画、音楽などを通して輪郭が与えられることがある。

 

鬼海弘雄さんの東京の写真を見ると、なぜか幼少期の佐世保の出来事が物語として思い出される。周りが田んぼに囲まれた祖母の家に泊まりに出かけた時のこと、弟と一緒に蝉を10匹くらい捕まえて家に持ち帰り、僕らが寝泊まりしていた部屋の中ですべての蝉を籠から出した。6畳くらいの狭い空間だが、自由になった蝉は飛び回り、そこら中に小便を撒き散らした。僕らはそれが楽しくて楽しくて、蝉と一緒に踊り狂っていた。祖母は怒ることなくずっと微笑んでいて、僕ら兄弟と10匹の蝉を見守っていた。蝉は部屋中に小便をしていたが、その後どのように過ごしていたかは覚えていない。でも間違いないのは、その夜、祖母と3人布団を並べて寝たということだ。蝉の小便で湿った畳の上に布団を敷いて。もしかしたら、僕らが風呂に入っている間に掃除をしてくれていたのかもしれない。蝉の小便の感触を、弟の笑い声を、祖母の微笑みを、鬼海弘雄さんの写真が与えてくれた。