Life Itself

生活そのもの

2018/06/15

妻は祖母のお気に入りで、度々呼び出しがかかる。妻のためにプレゼントを用意していて、それを渡すためと、単純に妻に会いたいのだと思う。ただ、既に臨月を過ぎている今の状況では呼び出されても行くのが難しくなり、今日も朝から呼び出されたものだから、夜あまり眠ることができない妻からすれば、少しストレスとなったようだ。それでもすぐ近くに気にかけてくれる人がいるというのは嬉しいことだ。
この日記でも書いたと思うが、この前天神を歩いていると偶然地元の友人と会った。今日、勉強会があったとかでその友人と仕事に飲みに行き、つい先程帰ってきたところだ。
僕は地元に小学校の時までしかいなかったが、2年前に小学校の同窓会があり、そこで小学校の友人たちとの縁が戻った。もっとも今日会った友人は地元を離れてからも連絡を取り続けていて、同窓会の前にも会ってはいたのだが、同窓会以降会う頻度は多くなった。2年前の同窓会では独身が何人かいたが、この2年ほどで結婚や出産ラッシュがあって、その友人も1年前に結婚したばかりだ。僕も結婚して1年経たない。
話の中心は同級生の近況になるのだけれど、小学校時代の友人というのは、小学校時代の気分のまま話すので、中学以降の友人とは全く違う。普段あまり使わない方言も出てくる。親と話すときだってそんな方言は出ない。小学校の友人と話すときだけだ。そんな友人と酒を交わすというのも不思議な感じもするのだけれど、他にはない楽しさでリラックスできた。
 
久しぶりに結構飲んでしまった。

2018/06/14

子どもができるということは、自分の命がもはや自分だけのものではなくなるということだ。
 
これから先、父の会社を継ぐことになる予定で、そういった意味では既に僕の命は自分だけではなくなっているのだが、会社には弟もいるし、他の従業員だっているわけで、もし僕がとうかなってもきっとどうにかなる。
だが、子どもにとって、血が繋がった父親は僕だけであるわけで、他にはいない。儚い存在と言える子どもが、産まれてすぐに所有するものは、両親の命なのかもしれない。親になるということは、今まで以上に自らの命に責任を持つこと。それが家族を持ち、子どもを持つということだろう。
感情に任せて行動することも控えていく必要があるだろう。もちろん喜びや楽しみといった感情はどんんどん子どもと共有していっていいだろうが、怒りの感情は抑えていかなければならない。怒りの感情に任せて他人とトラブルになることは、一番あってはならないことだ。
 
血液検査をして、あまり数値が良くない項目があり、改善する必要があると言われた。今すぐにどうなるというものでもないが、ここまま放っておいて10年も経過すると病気に繋がってしまう可能性があるそうだ。10年後は、まだ小学校も卒業していない。どんなに短命であるとしても、子どもが成人するまでは生きたい。これは欲だろうか。欲でもあるだろうが、僕の命が子どものものであるとすれば、勝手に死んでしまうのは子どものものを奪ってしまうことになる。
 
もっと自分の命について考えなければいけない。

2018/06/13

今のところ陣痛のときには妻の側にいるつもりだが、分娩室までは入る予定はない。情けない話だが、大量の血を見れば動揺してしまい、逆に妻の迷惑になるように思う。
無事に産まれて我が子を最初に抱く時はどんな気持ちになるだろう。前々回の『Youは何しに日本へ』でも最初に抱くところが映されていたし、いろんな人から話も聞くが、こればかりはとても想像できるものではない。
 
今日近所の行きつけのカレー屋に行って、ご主人に最初に赤ん坊を抱いた時の話を聞いた。その人は、抱いている子が自分の子どもであることの実感がわかず、不思議な気持ちになったそうだ。泣くことはなかった。だが、ご両親に報告の電話をした際に、涙が溢れ出たと言っていた。
 
今からその時のことを考えてもわからないから仕方がないことだが、それでも今日の話を聞いて、どうなるのだろうと考えてしまう。まだ男の子か女の子かもわからない。無事に産まれることを前提で書いているが、どうなるかまだわからない。いくら考えても、どのような感情が生まれるのか想像がつかない。
 
今日も胎動は激しく、妻はお腹の中でキック?されて、痛がっていた。とても元気だ。このまま元気に産まれてくれることを祈る。毎日祈っているが、父親として今の子どもにできることは、まずは祈ることだ。

2018/06/12

今日は母の誕生日、還暦である。
刺繍のハンカチをプレゼントし、気に入ってくれたようで良かった。
 
妻が母と電話で話していて、産まれる気配があたりないと伝えると、産まれてしまったらまたお腹の中に戻したくなるものだ、と大笑いしながら言っていたそうだ。この前も、僕を産んだすぐ後、泣きまくる僕を側にして、母は気が狂いそうになったと言っていた。僕としては全く覚えがないことではあるが、どこか責められているような感じがして、どう反応したらいいものかわからない。赤ん坊の頃から今に至るまで、迷惑をかけっぱなし、手がかかる子供だということだ。
 
今日の検診で、望ましいのは38週あたりで産まれることだ、と医師から言われたそうだ。38週と言えば来週である。まだまだ産まれそうないはない、だからたくさん歩くように助言された。もし産まれるのが遅くなれば、入院して陣痛促進剤を打ち、それでも産まれそうになければ帝王切開ということになる。先週までは少しでも長くお腹の中にと思っていたのが、これからはあまり長いことお腹の中にはいないように願うことになる。しかし、来週に産まれるのが望ましい、か。来週に子どもが産まれていることを想像することは難しいが、もうすぐそこまできている。

2018/06/11

ブログという形式で日記を書き始めたのが、昨年の11月。今まで日記を何度も書いては3日も持たずに終わったのが、半年以上続いている。途中、仕事の都合で書くことができない時期もあったが、その時期を除いて、毎日書いているはずだ。
毎日書いているとどうしてもダレてしまう。というより、毎日書くべきことなどないのだ。書くべきことがなくても、とりあえず書くしかない。1日でもサボってしまうと、それで終わり。もう書くことができなくなる、きっと。何もないのに無理やり仕方のないこと書いていて何の意味もないのではないかと思い、途中辞めようと思った時期もあったが、内容ではなくとにかく続けることだ、と書き続けているうちに、毎晩PCを開いて書かないと気持ち悪くなるようになった。今では書くことに苦痛を感じることはほとんどない。内容などどうでもいいと思っているわけではないけれど、内容よりも書くという行為そのものに意味を見出している。否、意味など何も感じていないかもしれない。ただの習慣だ。ただの行為というだけだ。
 
日記を毎日書いていると、日々は連綿と続いているのだということを感じるときと、今日と明日の間には明らかな断絶があると感じるときがある。日記というのは、その日でないといけない。「いけない」わけではないかもしれないけれど、そうあるべきだ。昨日でもなく、明日でもなく、今日。今、ここ。これはヨガで学んだことが大いに影響している気がする。あらゆるところにヨガが顔を出してくるのはちょっと鬱陶しいが、でも日記というのはそういうものだと思う。昨日と同じことを書いてはいけない、そんな気になる。昨日の続きを書いてはいけない、今日は今日のことを。今日は昨日ではなくて今日なのだ。日記を書いているとそんな気持ちになる。
だが、今日は昨日や明日とは違うと考えている時点で、そのことを気にしている。日記を書くときは、必ず昨日の次のページに書くのだから、昨日のことが目に入る。明日は、今日書いた次のページに書くことになる。今日の時点で明日のことを気にしているわけではないけれど、今日終わるとは思っていない。今日終わるような書き方をすることはない。あくまで今日のこととして書く。今日は今日、明日は明日、そんな感じで割り切っている。日記は続くものだ、どこかでそう思っている。
 
妻のお腹の中の赤ん坊がいることを意識してから、書き方が変わってきた。未来を強く意識するようになった。過去よりも未来を見るようになった。今よりも未来。今、妻と2人でいるこの時間はとても大切なものだが、赤ん坊がいる未来を既に見据えている。赤ん坊との関係は既に生まれているのだ。赤ん坊が産まれる未来があるからこそ、今を大切にする。時間のあり方が変わってきているのだと思う。そう考えると、今は1つの大きなターニングポイントということになる。赤ん坊が産まれるとまた時間のあり方は変わってくるはずだ。赤ん坊が出産する直前のこの時間というのは、特別なものだと思う。

2018/06/10

今日から正産期に入った。これから先はいつ赤ん坊が産まれてもおかしくない。いよいよだ、とこれまでにも言ってきたが、本当にいよいよで、十分に心構えをしていかなければならない。
安心するには早いが、それでもこの日までお腹の中にいてくれたことに心からホッとしている。妊娠には色々とトラブルはあるだろうが、妻もいくつものトラブルを乗り越えてきた。
つわりもひどかったし、途中出血もあったし。僕以外に頼る人がいない中で、僕の支えも十分ではなかったかもしれないのに、妻は本当に頑張ってくれた。
 
胎動は今も激しい。胎動カウントをする必要がないくらい激しい。元気なことはいいことだ。僕らは赤ん坊の誕生を待ち望んではいるけれど、自分のタイミングで出てきてくれればいい。
 
いまはお腹の中の生活を満喫しておくれ。

2018/06/09

酒を飲むと必ず体調が悪くなるとわかっていても飲みたくなってしまう。今日もビールを買ってしまった。
 
酒を飲むと、眠れなくなる。担当の医者曰く、酒を飲むことで脳の神経が緊張してしまうのが問題なのだそうだ。
 
寝る直前に飲むと、いわゆる寝酒というやつをすると、必ず眠れなくなってしまう。この症状がはっきりと出てきてからは、酒を飲むとしても、最低でも寝る前の2時間前に飲み終わるように調整するようになった。
前回飲んだ時も就寝時間までに余裕を持って飲んだ。その時は眠ることはできたが、悪夢を見て、うなされた。
 
不思議なことに、誰かと飲む時はこの症状が出ることはほとんどない。たとえ寝る直前に飲んでも、すっと眠ることができるし、悪夢にうなされることもない。だいたい同じ酒(ビールばかり)を飲んでいるのに、この違いはなんなのだろう。誰かと飲む時の方が、酒の量は多いくらいなのに。
 
自宅で酒を飲むといっても、多くて週に一度程度だ。数年前までは毎日のように飲んでいたが、もうそこまで飲まなくてもよくなった。普段、それほどストレスを感じているわけでもない、酒を飲まないとやっていられないような仕事をしているわけではないのだ。今すぐに断酒しろと言われれば、すぐにできるだろう。それでも酒そのものが好きだし、いい音楽を聴きながら酒を飲むことほど愉快なこともないので、なんだかんだ飲みたくなってしまう。
 
いかに体に無理なく、楽しく飲むか。
 
1人で飲むときだけ症状が出ることを考えると、1人で飲む時は違うモードに入っているのかもしれない。何かに意識が向いているのだろうか。1人で酒を飲むときだけ、脳神経に緊張を与えてしまっている。誰かと飲む時は、おそらくそこまで緊張を与えていない。誰かと話しながら酒を飲むというのがいいのだろうか。いろいろと試行錯誤して、分析してみてもいいかもしれない。医者も正確なことはわかっていないのだ。自分の体なのだから、自分で向き合って、その付き合い方を考える。
酒が仲介役というのもなんだかなぁという感じもするが。