Life Itself

生活そのもの

2017/11/17

楽器を練習するにために左手の指の爪は頻繁に短く切るようにしているが、爪を切るとすっきりする感じの中にどこか気持ち悪さが残る。それまであったものがなくなるということだから違和感が生じるのはおかしいことではないとは思うが、髪を切ったときにはすっきりした感覚以外に何も感じることはないし、爪でも足の指の爪を切るときはそのような感覚にはならない。なぜだろうと考えたところで仕方がないのだけれど、僕は今でも切った爪をすぐには捨てずに、子供の時のように爪が元々あったところに戻してみてぴったり形があうことを何度も確かめたり、ずっと手の中で弄んだりする。どこか切った爪に対して愛着があるのかもしれない。わからない。

爪はすぐに生えてくる。だからウクレレを練習するのに邪魔になってまた切らなければならない。でもまた生える。切っても切っても生えてくる。

自分の体の中で、この成長し、変化している様子を直接見るとができるのは、爪以外にはないんじゃないだろうか。髪は触ってしか伸びていることを感じることができないし、髭もそうだ。髭は剃って次の日にはうっすらと生えているのを目で見ることもできるが、そのためには鏡を使わなければいけない。手がむくんでいるなどの変化を感じることはあるけれど、爪のようにただ伸びていくのではなくて、体調によってむくみがあるときとないときがある。でも爪はその変化・成長を直接見ることができる。たぶんみんな見ている。どんなに忙しい人でもスマホは使うし、PCも使うし、その時に嫌でも爪が目に入る。そこで伸びてきたか感じるかどうかは別だけれど。

 

爪を切った時の違和感、そしてすぐに生える爪に対する感覚は一種の愛だと思う。

これは、坂本慎太郎の一番新しいアルバム『できれば愛を』リリースの際に、坂本慎太郎が語っていたことと同じようなことだ。

 

坂本慎太郎がたどり着いた“答え”「僕が作りたいような音楽を自分で作るのは不可能」 - Real Sound|リアルサウンド

 

坂本:そう。だからそういう曲を自分でもやりたいなって思ったんですね。ケガしたところが痛くないっていうのは、自分が寝てる間に免疫細胞みたいなものがキズを治してるわけじゃないですか。そういうのをあえて「LOVE」と言いたい、みたいな。

ーー「FUN」じゃなくて「LOVE」なんですね。

坂本:そうですね。なんかこう……恋愛とかLOVE&PEACEとかスピリチュアルな感じとか人類愛とか、そういうでかい感じの愛じゃなくて、ミクロの方向。自分の悪いところを免疫細胞が治してたとか、汚染された土地をバクテリアが浄化してたみたいな。そういうイメージの「LOVE」なんですけど。

 

 子供の頃はよく遊んで怪我をして、そこでできた大きめのかさぶたを何回も剥がしていじくって(あれってなんで気持ちよく感じるんだろう)、またそこから血が出て、でも気づいたときにはすぐに治って、その繰り返しだった。大人になってからは、スポーツをしたりすることでもない限りそんなに大きなかさぶたを作ることもないし、自分の体をそんなにマジマジと見ることはない。身だしなみは整えることはするけれど、それはまた別の話だ。

 

この前、タイピングをしている自分の右手が目に入った時に、手の甲の親指の付け根あたりにほくろがあって、昔からこんなところにほくろあったっけと思った。ほくろの数は人によると思うけれど、たぶん目に見える範囲だけでも、ほくろがどこにあるかをある程度でも答えることができる人って意外に少ないのかもしれない。きっと子供のほうが答えることができる。

大人になるにつれて見る世界は広くなっていくけれど、その分自分の方へ目が向かなくなってくる。それは仕方がないことだ。目はいくら多くて2つしかないし、時間も限られている。自分の体を観察する余裕なんてない。でも、切っても切っても生えてくる爪を見た時に、子供の頃は自分の体が一番の観察対象であったことを思い出した。もうじっくりと体を観察することはないんだろうか。今僕らが見ている世界は広いと感じているけれど、子供のときは自分の体を含めて、周りのものに対してもっと圧倒的な大きさ・広さを感じてはいなかったか。それは見る対象が限られていたから、それぞれに愛を持って見ていたからかもしれない。

ミクロの愛。できれば愛を。切った爪はそう語りかけてきているのかもしれない(なんか上手いことオチがついたみたいになっちゃった)。